院長・スタッフ紹介

ひやま歯科クリニック院長プロフィール

略歴

平成7年
神奈川歯科大学歯学部 卒業
平成7年
神奈川歯科大学総合診療科 勤務
平成8年
神奈川歯科大学小児歯科学講座 助手
平成13年
日本小児歯科学会認定医 取得
平成15年
歯学博士号 取得
平成16年
神奈川歯科大学小児歯科学講座 講師
平成20年
ひやま歯科クリニック 開院
平成22年
日本小児歯科学会専門医 取得

所属学会等
日本小児歯科学会、日本口腔インプラント学会

生い立ち

生まれ
昭和の高度成長期で、日本万博の開催された1970年に檜山雄彦は生まれました。現在の川崎市立病院で誕生しました。小さいころは体が弱かったそうです。父は公務員、母は主婦という家庭の長男として誕生しました。父は、定時に出勤、帰宅、母は主婦でしたので、両親の愛を存分に受けて育ちました。父は厳格で、よく怒られていました。とにかく、小さいころから落ち着きがないことが私の特徴でした。
幼稚園
ひかり幼稚園に入園(現在の第一ひかり幼稚園)。よく覚えているのは、常に裸だったこと。そして、漢字をよく読めたこと(「蟷螂」と書いてあるカードをもらってうれしかったのを今でも覚えています)。また、記憶にあるのは、音楽会のトライアングルを練習中にトイレに行きたかったのを我慢して、おしっこを漏らしてしまったこと。とっても、ピリピリした雰囲気で、練習中にトイレと言えなかったのを覚えています。その時、担任の先生のズボンを借りて帰宅したそうです。
幼稚園の卒園時に、自分の手形とズボンを貸してくれた先生の一言が書いてある色紙をいただきました。この色紙は、今でも覚えていて、私の根底になっている一言です。
『忘れないでください  あきらめることを知らなかったあのころを』
このころ、川崎は、ぜんそくで有名な町でした。私も川崎ぜんそく認定患者だったそうです。
小学校
小学校は、川崎小学校に入学。小学校時代は、いろんなことにチャレンジさせてもらいました。そろばん、お絵かき、習字、ピアノ、トランペット、野球、体操、水泳、ボーイスカウト、塾。小学校6年間続けたものはありませんが、様々なものにチャレンジさせてもらいました。その当時は、友達と近くの公園で遊んでいても、ある時間になると、習い事で一人先に帰らなければならなく、なんで習い事しているんだろう?遊んでいる方が楽しいのに~!!と感じていました。
このころ、少しですが、人前に立つことにやりがいを覚えはじめました。学級委員長や学芸会での目立つ役に選ばれるように頑張ったりとしていました。(思い出せば、幼稚園の学芸会でアリババと40人の海賊で海賊長を演技したりと目立ちたがり屋だったのかも??)
小学生の学芸会では、ミツバチマーヤの冒険でふんころがし役をやりました(太っていたから選出されたように思います)。
通信簿には、いつも落ち着きがないと記載されていました。特に小学4年生頃は、よく廊下に立たされていました。当時所属していた野球チームの監督の家が、その廊下の目の前で、よく監督の奥様に挨拶していました。
小学5年生になると、塾のみになりました。中学受験に向けてです。ただ、なぜ中学受験しなければならないのか?私には理解できていなかったので、塾には行っているものの、勉強はあまりしませんでした。その塾の塾長さんは、母の家庭教師だった先生で、そのつてで普段は蒲田まで、夏休みや冬休みの集中講義では、東京の茗荷谷駅まで通ったこともありました。ただ、あまり勉強していなかったので、中学受験の結果はすべて不合格。なんか、自分を否定されたように感じました。
中学時代
川崎中学に入学しました。中学時代は一言、塾のみでした。現在もありますが、川崎予備校に通っていました。お受験戦争の激しい時代でしたので、川崎予備校に通ってすぐに、部活禁止!といわれたことを覚えています。川崎予備校で進学クラスに在籍していましたので、周りの同級生も勉強一筋。宿題もたくさん課され、宿題を忘れて怒られるのが嫌で勉強をしていました。ですので、中学校の友達といえば、予備校で一緒に勉強した仲間でした。大人になってから、中学時代の友達とは今でもつきあいがあるという話を聞きますが、私にはそのような友達がいません。中学時代は、塾の時代でした。
高校受験は、5校の私立高校を受験しました。私の希望する高校には合格できませんでした。ただ、1校に合格できたのでその高校に進学することに決めました。塾の友達は、希望校に合格できたのに、なんで私は希望校に行けなかったのだろうか!とかなり悔しかったのを覚えています。今思えば、真剣さ、合格に対する思いの強さなどが不足していたことがよくわかります。
高校時代

高校は、渋谷にある青山学院高等部に入学しました。中学では、部活禁止と言われていたので、高校では絶対に部活をやると決めていました。ただ、中学時代に運動をほとんどしていなかったので、運動部に入るのはかなり不安がありました。また、運動をせずに、夜食などを食べて受験勉強をしていたせいで、私の体はかなり大きくなっていました。青山学院は、幼稚舎からあります。そのため、幼稚舎、初等部、中等部から高等部へ入学した生徒(内部生)同士はすでに知り合いで友達もたくさんいます。私のように高校から入学する外部生は、まだ、友達も多くいません。そこで、勧誘されたのが柔道部。柔道部には、内部生がたくさん入部するようだったので、友達も欲しいし、いいかな~なんて軽い感じで入部しました。入部したら、大変。運動をしていなかった私に、筋トレ、マラソンなど、苦しかったです。ただ、部活に入ったことで、先輩、後輩との上下関係や、友達などとてもたくさんの学びを得ることができました。団体戦での、友達を信用する大事さや、友達を応援する大事さ、チームとは、どんなものかの基本は柔道部で習いました。また、生まれて初めてダイエットをしました。渋谷区の高校柔道の団体戦では、5人1チームで、3人が71㎏以下、後の二人は体重制限無しでした。私は、身長が高くないので、71㎏以下の方に出場できるようダイエットをしました。結果は、71㎏までは落とすことができず、結局、体重無制限の方に出場。結果は、あまり芳しくはありませんでした。チームに、もっと貢献できたのではないかと思います。

青山学院は、とても自由な校風で、とても楽しい高校生活でした。3年生になり、大学を考えなければならない時期になりました。私は、政治経済学部に希望を出しましたが、推薦を取れませんでした。あと一歩、学力が不足していました。ここで、悩みました。このまま希望ではない学部に進学するかどうか。その時、横須賀で歯科医院を開業している叔父から歯医者になったらどうかと言われ、神奈川歯科大学を紹介されました。神奈川歯科大学には推薦試験があり、内容は面接と小論文というものでした。受験勉強をしていない私にとって、これなら合格の可能性があると思い、受験。見事に合格しました。高校3年生で私は、歯医者になると決断しました。

大学時代
大学は横須賀にある神奈川歯科大学に入学しました。1年生は何をするかというと、あまり歯の専門的な勉強はしなかったように思います。また、ここで部活の勧誘がありました。高校で柔道をしていましたので、柔道部を考えていましたが、選んだのは歯科大学で神奈川歯科大学にしか存在しない応援団でした。先輩がとても優しく、その優しさに感動して、入団(入部とはいいません)しました。1年生は、坊主と言われ、素直に坊主にし、挨拶は先輩と会えば、『押忍』と挨拶する生活でした。応援団に入団する1年生は珍しかったようで、とても目立ちました。そのため、他の部活の先輩にもかわいがってもらい、楽しい横須賀ライフを過ごしていました。
3年生、4年生になると、専門的な勉強が始まり、レポートが大変でした。5年生になると、病院実習が始まりました。実際に患者さんを診察していきます。まだ、何もできない学生ですが、インストラクターの先生を真似して、真面目に取り組みました。あっという間の病院実習が終わり、後は、卒業試験と国家試験が待っていました。卒業試験に合格しないと、卒業できず、国家試験も受験できません。この時は、必死に勉強しました。卒業試験も1回で合格することができました。そのまま、国家試験も合格して、いよいよ歯科医師人生が始まりました。
研修医時代
大学卒業後、神奈川歯科大学総合診療科に進みました。この科は、すべての治療を行う科です。医科が内科、外科、眼科、皮膚科、などに分かれているように、歯科も大学病院では、補綴科(入れ歯や冠)、保存科(詰め物、根や歯周病)、口腔外科、小児歯科、障碍者歯科、予防歯科などに細分化されていました。総合診療科では、歯科治療の基礎を学びました。ここで、しっかりと教わったことが今の診療にとても役立っています。
小児歯科へ
大学時代の応援団顧問が小児歯科の教授をしていましたので、小児歯科に就職することになりました。大学に就職すると、治療のみをしていればいいだけではなくなります。『治療』、『教育』、『研究』の3本の柱をバランス良くやるようにと教授に教わりました。最初の数年は、治療のみでした。まずは、治療が上手になりたくて、なりたくて仕方ありませんでした。その後、大学生5年生、6年生を担当するインストラクターになり、ここで教育の楽しさ、難しさを学びました。お子さんの治療を安心して、任せていただけるようになるにはどうしたらいいのかこのころから考え始めました。学会にも、毎年出席し、日本、海外と新しい知見をみることが楽しくて仕方ありませんでした。ここで新たに目標を立てました。学位をとる!小児歯科に関連した研究をして、学位をとることを目標としました。基礎研究を行うために、神奈川歯科大学口腔細菌学教室に席をお借りして、研究を始めました。この間は、始発で大学に行き、終電で帰宅するような生活が続きました。小児歯科に勤務して10年くらいが経過、治療、教育、研究の3本をしっかりできるようになってきたころでした。治療は、大学病院の特性として、地域の歯科医院からの紹介が多く、いわゆる難しい症例もたくさん経験しました。全身麻酔での治療などもこの時期に経験しました。しかし、このまま大学に勤務していても将来、どうなるのかと漠然として不安もありました。その時、お世話になっていた教授が退職することになり、より将来について考えるようになりました。数年後、退職を決意。今後は、開業して、地域の皆様の役にたつ歯科医師になろうと方向転換をしました。
開業
約1年半、都内の歯科医院に勤務させていただきました。
そして、川崎区昭和で開業することになりました。
地域密着を目指し平成20年11月にスタートしました。
患者様が快適に笑顔で帰っていただく歯科医院、患者様お1人、お1人にご満足いただける技術とサービスをというスローガンのもと、診療にあたっております。
ひやま歯科クリニック 檜山恭子プロフィール

略歴

平成7年
神戸学院大学卒業
平成9年
製菓専門学校卒業
平成17年
結婚を期に歯科衛生士を目指す
平成21年

日本歯科衛生士専門学校卒業
歯科衛生士となりました

生い立ち

生まれ

兵庫県たつの市…童謡「あかとんぼ」の街です。山、川、田んぼ、と自然の多い中で育ちました

幼少期
ひっこみじあんですぐ泣く子でした。
小学校時代
1年〜6年までずーっと身長は一番前でした。4年生で夏休みに家族と離れ合宿に参加したことがことがきっかけで、少しずつ活発になってきました。
中・高校時代
私立の女子校に入学。女のそのになじめず、早く卒業したかった。学校には行くが勉強はさぼっていました(笑)
大学時代

友人がたくさん出来て、毎日が楽しかった。バイトばかりしていました。大学3年の冬、阪神淡路大震災を真近で経験しました。当時アルバイトしていたケーキ工場が震災で機能しなくなくなりました。

製菓専門学校時代
アルバイトでケーキ作りをしてから、ケーキ職人に憧れるようになり専門学校に入学。ケーキ作りのノウハウを学ぶ。シュガークラフトというデコレーションケーキに魅せられ、技術を学ぶために上京。
結婚
歯科医師と結婚が決まり、夫の「歯科衛生士になってほしい」という願いから(自分を高めるためのチャンス!)と歯科衛生士を目指すことを決心しました。
DHへ
結婚式の1週間後から学校が始まる。
若い方と机を並べひさしぶりに勉学に励みました。大変でしたが、良い経験となりました。

檜山恭子の理念

まず、「ひやま歯科クリニック」がどんな歯医者になりたいか…を考えました。
地域に必要とされる歯科医院になりたい。必要とされる自分、必要とされる医院を目指す。
そのためには何をすればよいか…
誰かに必要とされるためには、こちらから何かを提供する。例えば、笑顔、気持ちの良い挨拶、その方が必要な情報、楽しい会話、相手が元気になれること。院内のスタッフが皆、同じ方を向いて、楽しそうに仕事をしていたら素晴らしいと思います。やがて、それが院内の活気につながり患者様もつられて笑顔になる。
みんなが幸せになるための医院作り(チーム作り)をしていきたいです。

ひやま歯科クリニック 内山安奈プロフィール

略歴

平成19年
南大師中学校 卒業
平成21年
県立川崎高校 卒業
平成23年
歯科衛生士国家試験 受験

昭和医療技術専門学校 卒業

生い立ち

・4歳から15歳まで川崎少年少女合唱団という習い事をやっていました。歌、ダンス、三味線、太鼓、笛、キーボード、ドラムなど様々なことをやっていました。

幼少期

あまり泣かない子で、すごく人見知りする子だったようです。お母さんから離れない子でした。

小学校時代
毎日同じマンションに住んでた子たちと家の下で遊んでました。一輪車、ローラーブレード、ベース踏みをしていました。
中学校時代
受験勉強頑張った記憶しかありません。
高校生時代
友達もたくさん出来て、先輩後輩とも仲良く楽しい高校時代を過ごしました。先輩たちがやっていたダンスチームに入り文化祭で踊ったりしました。いい思い出がいっぱいあります。
専門時代

専門学校でも仲のいいお友達ができ、辛い実習期間も乗り越えられました。先生や年上のお姉さんが協力してくれて一生懸命勉強し無事、国家試験に合格することが出来ました!!!!

神奈川県川崎市ひやま歯科クリニック
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